いのち 詩:高野喜久雄
いのちとは ただ
待ちぼうけの ことではないか
来るはずのない 何か
巨きすぎるものを 切なく
待ちわびることではないか
水すましは その眩暈
ジラフは頚 薔薇は棘
人は言葉
向日葵は芯で
ただ 待ちわびる ことではないか

今日演奏した作品のテキストの1つです。
昔は全然わからずにどうしても好きになれなかったこの詩ですが、今は真摯に受け止められることが出来、ずっしりと重みを感じます。
昨秋の祖母、そして今夏の父の“死”
と共に
昨秋産まれた次兄の息子(甥)の“生”
身内で2つのことをここ1年で体験しました。
“生”から“死”に向かうとはどういうことなのか。
“いのち”とは?
この作品を勉強しながらもですが、演奏しながら様々なことが巡りました。
それでも答えはわかりません。
“待ちわびる何か”があることは33年程生きてきて、なんとなくわかった気になっています。
それを見付ける為に“生”を受け、答えを探す過程で、来るはずのない巨きすぎる“何か”を見付けた時に“死”を迎えるのかもしれないとも、この詩から学び発見させられました。
“生”を受けたからこそ“死”があるのですよね。
その間の“いのち”の意味や意義を自らが自らに課す。
本質は自らが死ぬ間際にわかるのでしょうか。
終演後、涙を流しながら僕に握手をくださった見知らぬご婦人の手は本当に温かく、握り返したときに、これが“いのち”の待ちわびる過程なのかとも思いました。
明後日から入院をされるそうで、この後どうなるかわからないと仰ってました。
僕の稚拙な歌を「救いでした」と仰ってくださった。
この上無い幸せです。
今日は扁桃炎で声帯炎も併発した最悪な状況でしたが、演奏して良かったと本当に思えます。
2014.10.19.大畑 理博
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